日本キェルケゴール研究センター・ホームページ
(Søren Kierkegaard Research Centre in Japan)


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 『日本人はキェルケゴールをどのように読んだのか―和辻哲郎と田辺元を中心に:西洋精神の一つの受容』

〔プロローグ〕

日本人がキェルケゴールを初めて迎えたのは、明治39年(内村鑑三・上田敏・金子馬治〔筑水〕)である。それ以降、キェルケゴールと向き合い内的な葛藤を演じた日本人の精神史は、すさまじい。名を挙げると、三土興三(京都帝国大学文学部哲学科の秀才、父は文部大臣、26歳にて逝去。残された思弁的断章「酔歌」)、橋本鑑(独立伝道者、享年39)、吉満義彦(カトリック思想家、キェルケゴールを「北欧のパスカル」と称賛、享年41),池田浩平(学徒動員兵、21歳にて病没。召集令状受け取ると部屋にこもり、壁にキェルケゴールの写真を貼り、大学ノートに記した“みんな、さようなら。インマヌエル・アーメン”)、と。ほかにも作家・椎名麟三(共産党員、特高警察からの拷問、のちにキリスト教作家)がいる。あるいは日本の仏教を背景にした大谷長の翻訳や研究は最高度の仕事であり、萬里小路通宗によるキェルケゴール文献目録もまた称賛されてよい。


キェルケゴールという西洋精神に触れた日本人は、それとはまったく異質の精神風土に生きる日本人としてこれを理解し、咀嚼し、思想を己の実存において主体的に生き 抜こうとした。そこではどのような課題が立ちはだかり、葛藤し、これを超克しなければならなかったか。畢竟その労苦は、西洋精神を受容して日本人の精神風 土へ土着させる一つの典例を示しているとも言える。


第一部 和辻哲郎『ゼエレン・キエルケゴオル』

[問題]

和辻哲郎著『ゼエレン・キエルケゴオル』(大正4年刊・1915年)は、日本におけるキェルケゴール受容史において、 最初の本格的なキェルケゴール研究書である。それは、英語圏内の諸国にキェルケゴールを紹介した名著Walter Lowrie Kierkegaard, 1938〔ラウリー『キェルケゴール』1938年刊・昭和13年〕にも先んじている。日本人の間でキェルケゴールの名が知名でない時期に、これほどの重厚な書が現れた事実を、われわれは内外に先ず誇ってよい。それだけに著者・和辻の秀才に驚く。当時、和辻は26歳、結婚して三年目、東京帝国大学大学院に籍を置く。

そこでは、 キェルケゴールに固有の思想がすでに紹介されるだけでなく、それぞれの問題点も指摘される。またキェルケゴール各著作の思想内容を単に解説するのでなく、 伝記的な諸問題にも言及してキェルケゴールがいかに生きたかを活写し、生と思想が一体となる稀有な「主観的思想家」〔主体的実存的思想家〕であることを強調する。全体で661頁に達する大著の中、第一部「キエルケゴオルの人格と生活」に関しては335頁を割き、哲学思想を論説する第二部の286頁の分量を凌ぐ。当書に取り組む著者の姿勢が際立つ。だから、後代が批判するように、単に知的好奇心からの産物とは、とうてい思えない。「自序

で記されるように、キェルケゴールの問題は当時の和辻自身の問題であり、キェルケゴールを語ることは和辻自身を語ることでもあったであろう。

  

最初はあまり引きつけられなかつた。所が昨年の6月の初めに、突然彼の内部へはいつたやうな心持を経験した。その後私は殆んど彼のみを讀んだ。私は自分の問題と彼の問題とが極めて近似してゐることを感じた。遂には彼の内に自分の問題のみを見た。(和辻『キエルケゴオル』自序2頁)


しかし、の ちに東京帝国大学の倫理学教授として大成し、「和辻倫理学」とも称賛される倫理学体系を構築し、やがては文化勲章が授与される後年の栄光の中で、キェルケ ゴールの影が希薄である(少なくともかっての若き日のような精彩を欠く)、その不思議が和辻に対する批判を生む。


(Ⅰ)若き日の和辻哲郎

―第一高等学校生・東京帝国大学生の青春―


明治399(1906) <17>

旧制・姫路中学校から第一高等学校に首席で入学。

文学青年・和辻に哲学を勧めたのは、同郷の先輩・魚住影雄である。若き日の和辻に思想的感化を与えたであろう。兄の紹介にて中学校の先輩(3年生)・魚住影雄を知る。

  

若き日の和辻哲郎(一高生・帝大性)には、確かに人生を問う哲学・宗教的な求道心が芽生えていて、やがてニーチェやキェルケゴールと結びつく精神的土壌が培われていた! 和辻の『キエルケゴオル』は、秀才の帝大生による単なる知的産物でなく、当時の和辻の、いうなれば《実存照明》であったことを、先ずは理解したい。

けれども、それ以上に当時の和辻を魅了するのは、文学・演劇の世界(美的生活)である。姫路という地方都市から出てきた若者の前に、帝都・東京が眩い。

一高の文芸部で谷崎潤一郎(一学年上)と親しみ、拍車がかかる。


明治427月(1909<20>

第一高等学校を卒業。

9月 東京帝国大学文科大学哲学科に入学。

文学・演劇に熱中(イプセンの作品「ブラント」…)。

ニーチェを愛読。


明治456(1912) <23>

高瀬 照(22歳)と結婚(平安神宮)。

〔前年の11月、和辻は卒業論文を書くため高瀬家(一高時代からの友人の  実家・藤沢市)に下宿。友人の妹・高瀬家の長女・照と親しみ、翌年3月に和辻から求婚。〕

  

大正2年 (1913) <24>

10月に最初の著作『ニイチェ研究』を出版。

 夏目漱石を訪ね「木曜会」のメンバーとなる。

秋の末ころ、先輩・菅原教造(1881~1967)から助言がありキェルケゴール

に注目する―「ニイツシェをやった人がキェルケゴオルを知らないとは何で

す。」(和辻『キェルケゴオル』新版序3頁、『全集』第1巻396頁)


大正3年 (1914) <25>

2月に長女が誕生。


大正4年 (1915) <26>

6月 神奈川県藤沢町鵜沼に転居。

10月『ゼエレン・キエルケゴオル』を刊行。


大正5年 (1916) <27>

『新小説』5月号に「転向」、10月号に「放蕩息子の帰宅」を書く。


19175月)大和奈良の古寺を訪れ、「日本人とは何か」を考え始める。


大正71918<29>

雑誌『思潮』9月号から古寺巡礼を連載、和辻の名声。

1919<30>、『古寺巡礼』を刊行。


大正141925

<35>京都帝国大学文学部哲学科講師(のちに助教授・教授)〔倫理学〕。


昭和91934

東京帝国大学文学部倫理学講座教授。


昭和121937

和辻の代表作『倫理学』(上巻)を刊行。



(2)転向

 『ゼエレン・キエルケゴオル』は、和辻にとって青春の書であった。姫路から上京して、華やかな帝都の意気高揚する学生生活の奔流に呑まれ、和辻にしても又、青春の危機を体験する。「自分を真実に活かす」(和辻『キエルケゴオル』自序2頁)人生方向にしても見通せない―「いかに生くべきか」の問題が「最大の関心事」となっている(和辻『キェルケゴル』新版序17頁、『全集』第1巻404-05)。姫路時代から魅せられた文学に耽溺し、谷崎潤一郎に協力して同人雑誌『新思潮』(第2期)を発行、演劇に熱中し自由劇場へ通う。美的生活者である。イプセン演劇が流行する時代である。そのような雰囲気の中でキェルケゴールの名を聞く。

「初めてキェルケゴールの名をきいたのは、 イプセンの『ブランド』のモデルとしてであった。…著者〔和辻〕は高等学校にいたのであるが、そこの圖書館で…そのモデルとしてのキェルケゴールも相当に 強い魅力を以て心に残ったのであった。しかしその著書〔キェルケゴール著作〕が目にふれるところになかった關係から、それを讀むまでには至らなかった。」 (和辻『キェルケゴオル』新版序1-2頁,『全集』第1巻395頁)

〔そのあと、大学に入学して哲学講義の中でケーベル教授からキェルケゴールの名前を聞く、がそのときの内容については思い出せない、と。―和辻『キェルケゴオル』新版序2頁〕


しかし和辻 は和辻であり、彼自身の人格からも、道を変え、「転向」する。目の前には愛妻がいて娘がいる。もはや以前のように一人の自由人ではない。互いの間柄を整 え、家庭を構成し、社会に参与し、国家の成員として生きる人倫の道を行くことになる。そのときには、過ぎた青春と訣別しなければならない。 『キエルケゴ オル』は、和辻の青春の書である。 同時に、青春時代に対する和辻の「歌のわかれ」(下記の熊野純彦著『和辻哲郎』67頁)、となる。

なおも青春の残光が射し創作活動は続く。が、和辻の文学制作は、友人・谷崎潤一郎に及ぶべくもない。他方で和辻の人格は、谷崎と違い、美的主義の人生段階では充足されない。それから訣別して、次へとむかう。

「生活を高めやうとする心と、縦に身を投げ出して楽欲を求める心…私の努力はそれを徹底的に戦って自己の生活を深く高く築くにある。私の心は日夜休むことがない。

(和辻『キエルケゴオル』自序3頁)


和辻の死後、旧友・谷崎は回想する―

彼が『ゼエレン・キェルケゴオル』を書いたのは随分古いことで、私はキェルケゴールの名をその時始めて知った。私はその書を読みはしなかった。ただ故人と私との生きる世界が、いかにも隔絶してしまったことを感じた。(「和辻君について」-以下の勝部真長著213頁)


何かが和辻の中で起きている―「転向」へと。

『キエルケゴオル』を刊行した翌年の大正5年5月、文芸雑誌『新小説』に「転向」と題して和辻が書く、謎めいた不思議な文章がある、


過去の生活が突然新しい意義を帯びて力強く 現在の生活を動かし初めることがある。 …「過去」の重荷に押しつぶされるような人間は、滅ぶべき運命を担っているのであった。 忘却の甘みに救われるよ うな人間は、「生きた死骸」になるはずの頽廃者に過ぎなかった。…私は道を求めつつ道に迷ったように思う。

…何ゆえに私は彼らを愛したか。第一の理由 は直接的である。私は彼らが好きであった。…彼らの内に勇ましい生活の戦士を見、生の意義を追い求める青年の焦燥をともにし得ると思った。彼らの雰囲気が 青春に充ち、極度に自由であることをも感じた。…こうして私はただひとり取り残された。…Sollenは私の内にあった。Sollenを投げ捨てるためには、私は自分自身を投げ捨てなければならないのであった…私自身はAesthetでなかった…。

こうして私に一つの転向が起こった。

(和辻哲郎『偶像再興/面とペルソナ』講談社学芸文庫91頁以下・「転向」から)


〔この文章を読むとき私は、神学生キェルケゴールが大学生活から離れ、神学研究を捨て、文学研究(ファウスト、ドン・ジュアン、永遠のユダヤ人)に没頭しつつ、人生に疲れて自分自身を求め、真に生きてよい真理を模索し彷徨った《北シェランの夏》と重なる。〕


和辻に起きている変化について、勝部真長氏は次のように整理している。

*文壇の流れにかならずしも即していないが、『キェルケゴオル』を書いた後の和辻にも、内面的思索のなかに変化が起こりつつあった。 それは結婚生活によ る情緒の落着きと娘の誕生、 …阿部次郎との対話による思索の深まり、漱石山房における木曜会の影響…それまでの文学青年・演劇青年としての生き方を否定 し、 克服しなければならない段階にたどりついていた。(以下の勝部著224頁)

*今や彼は彼自身の道を発見し、その道をまっすぐ歩いてゆきたいのだが、ともすれば演劇・創作の誘惑にひかれやすいのを自分で知っていて、自らの心にムチ打って、…「意志の人」となるために、和辻はなお努力しなければならなかった。(勝部著227頁)


(3)巡礼

和辻著 『ゼエレン・キエルケゴオル』は、 第一に、わが青春の『キエルケゴオル』である。キェルケゴールと永遠の人・レギーネとの出会いと別れを物語る和辻の文 章は、一編のロマン主義文学である。また人生の三段階説に言及する和辻は、最初の第一段階・美的段階を述べるとき、まるで「自分の問題」でもあるかのよう に、精彩で生き生きとしている。青春の和辻が、そこで躍如するかと思われるばかり、印銘深い。それは同時に、美わしの青春時代へ贈る手向けの言葉ともなっ ている。今は結婚し妻子があり、「二人共同体」の人倫的義務と責任を負う成員である。青春時代との別れは、けれどもそこでの文学活動、あるいはロマン主義 精神との訣別をも意味する。和辻は和辻の道を行き、和辻自身となる。その別れの切所に、わが『キエルケゴオル』がある。


青春はい つのときも、悩ましく危機的である。それだけに、過ぎてみれば淡く哀愁をそそる。和辻にしても同様である。だから和辻の筆致には、情熱があふれる。後世の 若者たちを魅了してやまない。が、それらは別れの言葉である。忘却の苦痛を忍び、突破の歓喜を求め「真に生き真に成長する者」(和辻「転向」91頁)となる道へと目指す。

『キエルケゴオル』は、過ぎたわが青春に捧げる挽歌・レクイエムともなっている。


道は、で は何処へ? 定かでない未踏の道を行く巡礼である。「しかし事が自分の自由の内にあって自分の決意を待つものである限りは、私は自己の意志によって或者を 殺し他の者を活かせる。もしくは一つの者を、殺した後に活かせる。これはもとより、私には容易な業でない。それ故、私は精進する。」(和辻『キエルケゴオル』自序4頁)


ここまでは、「このやうな努力に於てキエルケゴオルは私の極めて近い友であり又師であった。」(和辻『キエルケゴオル』自序5頁)、しかしここまで、である。 

『キエルケゴオル』は、和辻哲郎にとって、わが青春に捧げるレクイエム、その挽歌であれば、「真実の生の春が来た。すべてはこれからだ。」(和辻「転向」98


本書刊行の翌年、友人たちと大和・奈良の古寺を訪れ、やがて現れる著書『古寺巡礼』は、時代の寵児とさせ、今にいたるも和辻哲郎の名声を不滅とさせる。


(4)結びに

和辻は、自 分に備えられた空間と場所において、課題を見出し、秀でた才能を十分に発揚させ、学者として誠実に生き、見事な業績を残した。文字通り、「私は自分の上に 降り掛って来るやうに感じられる運命に対しては、それが如何に苦しいことであっても、勇ましく堪え忍び、それによって自己を培ふ」(和辻『キエルケゴオル』自序4頁)。 自分に甘え怠惰に逃れず、力一杯に生きた。 その大成された和辻倫理学体系は、余人の出来る仕事ではない。雄渾・壮大で、そして豊穣な精神世界である、し かしわが青春のキェルケゴールの影が薄い。今日の岩波文庫『倫理学』全4冊の人名索引では、キェルケゴールは2箇所のみで、ニ

チェ〔ニーツシェ〕の6箇所余に比べて、 あまりにもか細い。


人間の学として大成した倫理学体系が批判される。<和 辻倫理学には、そこには生の陰影と悲劇性が欠けている…>、と。ここでの批判に対して熊野純彦氏は、岩波文庫・和辻哲郎『倫理学・四』の解説において、 《和辻倫理学にかんしては、 しばしば、その「全体性重視」の傾動が指摘され、その問題性が批判される。和辻倫理学体系にあっては、「人間が人間的であれ ばあるほど、個人はますます存在しえなくなる」のである》ことを認め、しかし学として構築された和辻倫理学体系とそれに対する批判者たちの間で見出される 相互の視点の間隔を整理し、あらためて問題について論考する(下記の参考文献391頁以下を参照)

  

熊野氏(岩波新書『和辻哲郎』72頁)は それを、 和辻が尊敬した夏目漱石の場合と比較して説くのは、尤もであろう。あらためて私自身の言葉で次のように言えば、過言だろうか、―漱石『こころ』 で凝視される人間のこころの深奥にひそむ罪、その暗黒の深淵は、和辻の世界とならない。だから「人間の罪」(漱石『こころ』)と絡まる、キェルケゴールの 憂愁・不安・絶望・単独者・例外者・真理の殉教者・赦罪の恩寵・反復などの諸問題―だからしてキェルケゴールがキェルケゴールである世界(とりわけそこで の否定性)が、所詮は「自分の問題」とならず、言葉としてだけ、こだまする、と。


和辻自身は どこまで自覚したかどうか、『ゼエレン・キエルケゴオル』を書き、自身の著書において紹介する人生の三段階のうち、美的段階から倫理的段階へ「いかに生き るか」を、彼自身が実証して見せている。そこには、悩ましい青春時代を生きた和辻自身の実存が滲みている。それだけに、和辻の『ゼエレン・キエルケゴオ ル』は、しばしば批判されるように一人の秀才が構想した単なる知的産物ではなかった、けれども美的実存から倫理的実存へ、精々のところ、それも倫理的実存 が生成する前半の段階までで、それに続き倫理的実存が破錠する責めの意識・懺悔の懊悩・罪意識に苛まれる憂愁、そしてこれらの否定性の深淵を突破し赦罪の 恩寵の世界へと志向するキェルケゴールの求道の足跡〔超越〕は、所詮は「私の問題」となれなかったのでないか。


あらためて先の唐木順三から

「… 和辻さんは近代のニヒリズムとはつひに無縁の人だった…。和辻さんは、ニイチェ、キェルケゴオル、ドストエフスキイを精讀し、愛讀しながら、彼らのなめた もっとも苦い液汁、ニヒリズムを、彼らほどにはなめなかった。また、なめないで通りすぎることができた。「虚無の淵」にまでは連行されたが、その淵の中に ある自分を見出しえずにすんだ。不安、絶望、深淵、飛躍、「あれかこれか」、さういふ実存のなめざるをえない苦汁は、「美味の漿液」によってうすめられて しまった。すなはち虚無が偶像にはけっしてなりえない徹底ニヒリズムを體験してゐない。虚無をも虚無にし、空をも空ずるといふ行為も體験もなかつたと私は 思ふ。…ニヒリズムの苦い體験をもたないものには、おのずからに「超越」の必要はない。」(『唐木順三全集』第9巻402-03頁)。


和辻は、自分に与えられた課題を誠実に生き抜き、余人には為し難い業績を残し、それなりに見事な、一つの完結した人生を生 きた。しかしキェルケゴールが説く実存生成の究極のところ、倫理的実存に破滅して宗教的実存が質的弁証的に生成するところ―いうなれば、キェルケゴールが キェルケゴールである所以が、 ―それは和辻が私淑し敬愛した師・夏目漱石の苦悩する暗夜行路でもあったが―、和辻の汎神論的な世界では曖昧となって溶融 する。そこでの問題性は、西欧の一神教世界の風土と日本の多神教世界の精神風土とを分かつ、永遠の深淵なのか、限界状況なのか。


『ゼエレン・キエルケゴオル』は、和辻のキェルケゴールであり、それゆえに魅惑的であり、キェルケゴールを読み学ぶ日本人の誰もが一度は読んでよい。しかし、かの時から今日は100年近くを経過している。キェルケゴール資料が溢れている!


キェルケゴールを読み学ぶことは、何よりも「自分の問題」との主

体的実存(論)的な対話となることが要請されるであろう。では今日、日本人として日本の精神風土に生きてどのような問いを立て、 どのような仕方で、問いを問うのだろうか。


〖参考文献〗

勝部真長『若き日の和辻哲郎』PHP文庫 1995

和辻哲郎『ゼエレン・キエルケゴオル』大正4年(1915年) 内田老鶴圃

和辻哲郎『ゼエレン・キェルケゴオル』新版・昭和22年(1947年) 筑摩書房、『全集』第1巻 岩波書店 1961

和辻哲郎『偶像再興/面とペルソナ』講談社学芸文庫 2007

和辻哲郎「自叙伝の試み」『和辻哲郎全集』第18巻 岩波書店 1963

和辻哲郎『倫理学』(1) -(4)〔解説・熊野純彦〕岩波文庫 2007

熊野純彦『和辻哲郎』 岩波新書 2009

菅原教造先生遺稿集『服装概説』 近藤出版社 1989

古川哲史『明治の精神』 ぺりかん社 1981

『唐木順三全集』 第9巻 筑摩書房 1968



第二部 田辺 元

哲学者・田辺 元と女流作家・野上弥生子 ―


(序奏)懺悔道としての哲学

大正 8年  田辺元、 京都帝国大学助教授として着任(東北帝国大学・講師から)

14年) 和辻哲郎、 京大・講師(のち助教授・教授)〔昭和 9年、東大教授として転任〕

昭和 3年  西田幾多郎、京大・定年退官〔後任:田辺教授〕

10年) 『キェルケゴール選集』(全三巻)改造社

16112日 西田の論文「実践哲学序論」 (『哲学論文集第四』の中)

18年)

1021日 出陣学徒壮行会〔明治神宮外苑競技場〕

11月 「大東亜宣言」

  19

     1021日 田辺元の公開講演会「懺悔道―Metanoetik―


     1219日 京大最終講義「懺悔道」

  203月 田辺、京大・定年退官(満60歳)

     (61日 西田の絶筆:「場所的論理と宗教的世界観」の

最終原稿)

     67日 西田没、75

    (926日 三木清、 獄中死)



(1)北軽井沢

昭和20年3月、京都帝国大学を定年(60歳)で 退職後、田辺元は病弱の妻(ちよ)を伴い、7月に居を群馬県・北軽井沢へ移す。引退したのでなく、都会の喧騒を離れた山あいの自然に囲まれて、思索し著述 を展開するためである。この場所は、法政大学が開発した別荘地で、岩波書店もこれに協力したので、岩波系の文化人をはじめとする人々が集まる「学者村」で ある。

ここに転居して日本の敗戦を迎え、翌年(昭和21年)に『懺悔道としての哲学』、次の昭和22年には『種の論理の弁証法』『実存と愛と実践』、昭和23年では『キリスト教の弁証』等の著作が続き、その間に幾つもの論文が執筆される。

田辺を慕って教え子たち・哲学生たちが集まり、当地で哲学講義もなされた―武藤一雄(のちに京都大学教授・キリスト教学) が「北軽井沢の山荘に隠棲されていた先生を訪問した時のことである…キェルケゴールはニーチェとは比較にならないほど深刻ですぐれた思想家である…」は、 このような事情をいうのであろうか。しかし人々からの再三の要望があっても、山をおりない。そのころには、次々と新制大学が設立され、教え子たちは大学教 授に就き、中には大学行政の責任者ともなっている。田辺ほどの人材は、どこでも歓迎される。しかし下山しない。その頃の胸中が手紙の中で読み取れる―「此 地の厳しい生活に身を曝しますのは、戦時中から小生が思想者として果たすべき責務を尽さなかった罪に対する自責…罪責の重荷を負ふ者と自らを痛感し…せめ ての罪滅ぼしと感ぜざるを得ませぬ」(昭和22年9月2日/下村あて―下記の竹田篤司『物語「京都学派」』220頁)。昭和25年に文化勲章が授与され(65歳)、宮中での親授式も<病気>を理由に欠席する。翌、昭和26年9月17日、ちよ夫人が逝去(享年55歳)。田辺の悲痛が深い。山の冬は厳しく、部屋の中のインクも凍る。別荘地の人々は、冬が来る前に下山する。しかし田辺は、ひとり山荘に留まる。

このとき、天から舞い降りた天女のような一人の女性が、老年の哲学者の前に立つ―作家・野上弥生子(本名・「やへ」)である。彼女は、この学者村が開かれた最初から夫・豊一郎(法政大学総長、夏目漱石の門下生、英文学者、能楽研究者)と共に、村の住人であった。彼女はこの地を好み、夫を東京に残しても、毎年夏にはここを訪れ執筆活動を続け、夫の死後(昭和25年2月に東京の自宅で死去)も、 それは変わらなかった。家は、田辺の山荘に近く、歩いて10分ほどである。田辺夫人のちよと親しみ、良い話し相手となっていた。ところが、ちよ夫人は、昭 和26年に没する。その前年に夫を亡くして悲傷を抱く弥生子には、いま愛妻を失い憔悴する哲学者に同情を寄せたのでもあろう。

こうしてふ たりの交流が始まり、それは田辺の死ぬ日まで、10年にわたって続く。田辺の死後、弥生子はなお20年を生き、長生して99歳で没し、全集が刊行された。 そのあと、弥生子の書斎から、「先生からの手紙」と上書きした箱におさめられた田辺書簡が発見された。他方、田辺の遺品整理中に、同じく箱に収められた田 辺あての弥生子の手紙の束が見出された。双方の側で連絡を取り、それぞれの手紙を並べあわせて、今日、『田辺 元・野上弥生子 往復書簡』(岩波書店、2002年)が、刊行されている。


(2)「先生…


妻を亡くしたばかりの年老いた哲学者と、すでに夫を亡くしている同年齢の女流作家(ともに明治18年〔1885年〕の生まれ―田辺は2月3日の出生、弥生子は5月6日に生まれ)、― このとき共に66歳である。ただの人間の男と女がここで出会ったのでなく、田辺はすでに文化勲章を受け、のちには弥生子にも文化勲章が授かる、高度の教養 と知性を具えた男と女との交流である。田辺は、現職のときに遣り残した哲学の大成へと―田辺哲学を構築する最終象面を迎え、ちよ夫人の死によってますます 身に迫る「死」との対決に臨み、いかに死ぬかの思いをもって『死の哲学』を構想している。 他方の女流作家は、戦争をはさんで10年越しの大作『迷路』を ようやく完結へと運び、苦闘している。やがて次の大作『秀吉と利休』の連載も始まる、円熟期を迎えている。時代を代表する二つの知性と教養が、 ここに流 れ込み、ともに支えあい、互いを啓発しつつ、濃密な時間が、北軽井沢の透明な自然を舞台にして、10年にわたって続く。


夏がおわり秋も過ぎ冬が迫ると、弥生子は山をくだる。 東京には息子たちとその家族が待っている。雑誌編集者たちが待っている。  法政女子高等学校・名誉校長という職責も果たさねばならない。

去り行く人を見送る哲学者も人間である―


野上夫人にささぐ―(19531117日付野上宛

 君に依りて慰めらるるわが心 君去りまさばいかにせんとする

野上夫人を送る―(19531123日付野上宛

 君つひに立去りたまふ再会は 来ん年の夏か遠しとも遠き


老いた人を独り山に残す弥生子も切ない―(1953930日付田辺宛

寂しさを生きぬく君と知りてあれど一人おきて去るは悲しかるべし

浅間やま夕ただよふ浮雲の しづこころなき昨日今日かな


その、こころとこころを、手紙と手紙がつなぐ。

山荘の冬の厳しさを知り抜いている、それだけに「先生」を案じ、   電気ストーヴを送りたいと申し出る。が、田辺は遠慮して丁重に断る、「小生依怙地かも知れませぬが、できるだけ電気会社の世話になりたくないのでございます。今日の電気会社の独占企業を嵩にきた横暴振は、小生の憎悪措く能はざる所です。」(19531117日付野上宛)。理由にもならない理由である。弥生子は、それでも心配してストーヴを送り込む(123日付田辺宛)。それを使ってみて科学文明の有難味にふれる(大学では「科学」について講じながら)、「…早速試用致しましたところ、予想以上に具合宜しく」と喜ぶ(1953129日付野上宛


山での独り の生活を心配し、無理が過ぎないようくりかえし案じ、その健康を心遣い、あれこれと品々が送られる―京都での生活が長かった田辺を思い、西京の味噌づけの 魚、お菓子(大極殿やソバボウロ)が届けられる。中でも、くりかえし三越から「カステーラ」(福砂屋のカステラ)が送られ、そのつど田辺は丁寧な礼状を書 き、喜んでいる。やがて田辺が倒れ入院する前年12月4日付の野上からの手紙でも、カステラが送られている。


ひとり苦労しつつ頑張る弟を愛しむ、優しい〈姉〉である―


(田辺の短歌)

 生まれ月はわれ三ヶ月の兄なれど 賢き君は姉にこそおはせ


夏が巡る と、その人は再び山の住人となる。こうして山荘に滞在中、週に二度、田辺を訪れて哲学講義が始まる。野上の日記では、「彼は笑はない哲学者になってゐる が、私との話ではよく笑ふ。口をすぼめ、眼を細くして、おばあさんみたいな顔で笑ふ」。だからとして、手を抜かない、大学での講義の続きである、しかし彼 女にとって最高の時間が流れる―「先生…私はここで一人しづかに暮らし、時〃先生にお目にかかって、いろ~おきかせ頂く生活ほど愉しい、また生き甲斐のあ る生活はございません。」(1954124日付田辺宛)。


ときに哲学者もすねて甘えるかのように、「小生の如く孤独な人間は、自らいかに死すべきかの準備をして置く必要がありますので、他人任せにはできず、自分で自分の死を整備して置かなくてはならぬからでございます…」と書けば(1955421日付野上宛)、 おりかえし弥生子は手紙を送り、「生き得る最後の日まで」生き抜く大切さを述べ、「先生は生も死の準備と仰しやいましたが、少ない余命を最上に有意義に生 きてこそ、迎へる死にもよい整備がなされるわけと存じます」と返信する。ここでは「死の哲学」を構想する哲学者よりも、作家である彼女の言葉のほうが、む しろ相応しく適切でないだろうか。 また、田辺が気負うかのようにして、「及ばぬまでも、キリストにならふ生方死方を希ふしだいでございます」(1956115日付野上宛)と書くとき、弥生子はすぐの手紙(18日付)で、「先生はクリストに倣ふことをつねに申されます。私はせめて先生に御倣い申すことを忘れず生き度いと存じます」と、母か姉のような暖かい心で、孤独な哲学者をつつむ。


ふたりの往 復書簡では、高度な対話が交わされる―当然ながら、  先ずは哲学が第一主題である…ソクラテス、プラトン、アリストテレス、そしてヘーゲル。さらにこの 時期の田辺はハイデッガー哲学と向き合っている。フライブルク大学創立500年を記念して名誉博士号が贈られ、ハイデッガー還暦記念論文集に寄稿を求めら れた田辺は 意欲的に寄稿論文を執筆する(最初に書かれた論稿「生の存在学と死の  弁証法」が独訳され「死の弁証法」と題されて送られている)。 何かとハイデッガーについて、往復書簡で語られる。哲学だけでなくマチスの絵画のこともアインシュタインの物理学も主題となる(田辺はもともと旧制第一高 等学校・理科の出であり、弥生子にしても次男は物理学者である。話が通じ合う)。当然、哲学に次いで文学は第二主題である―  中でも、詩人リルケとその 恋人ルー・ザロメについて、しばしば話題にあがる。リルケの詩「薔薇」のこと、その美しい「手紙」のこととともに…ルー・ザロメは、リルケの前には哲学者 ニーチェの恋人でもあった。ただの才媛ではなかった。リルケとザロメの関係は、いま、   哲学者と女流作家の関係の、その似像の映しえでもあっただろう か。


哲学者ハイ デッガーは、神学者バルトなどと共に《キェルケゴール・ルネサンス》の担い手の一人である。リルケの詩に寄せてハイデッガー哲学を展開する著作がよく知ら れる。そのリルケもまた、《キェルケゴール・ルネサンス》を担う一人である。リルケのただ一つの長編文学『マルテの手記』は、デンマーク人青年が主人公 で、憂愁の人・キェルケゴールの面影を宿すと言われる。

このような雰囲気の中で、ふたりが交わす会話にキェルケゴールの名が加わってきて当然でもあるだろう。田辺はキェルケゴールの『反復』を読むことを、弥生子に勧め、《反復》の思想について熱っぽく  彼女に語る。


  キェルケゴールの『反復』御読みに因み。小著をも御参照下さいさいました趣、恐縮に存じます。・・・小生は、 現在「死の哲学」といふものを構想して居ります。…まだ透徹せぬ所があるやうに感じられ、書始められずに居ります。…最近キェルケゴールに集中致しまし た。もう書始められ相でございます。若し奥様が御いでになって御話致すことができます〔な〕らば、執筆のきつかけも与へられますのかも知れませぬ。とにか く「死の哲学」はたとひ遺稿になっても、書上げなければ死ねないつもりでございます から、思残す所がないまで徹底的に煉るつもりで居ります。「死の哲 学」は小生一人の哲学ではなく、「死の世紀」たる現代の 哲学として万人の哲学でなければならぬ筈です。…昼間の思索の興奮が夜に続いて、夜半から暁方にかけ一番寒い時に眠が断え、床上に輾転致す日が少なくあり ませぬ。  しかしさういふ時にも、「死の哲学」は救援の手を差延べて呉れます。…(1956年2月12日付 田辺から野上宛の手紙)


(3)死の哲学

10年にわたって交わされた往復書簡の最後は、1961年(昭和 36年)1 月3日付、東京・成城から北軽井沢・大学村の田辺あてに送られた手紙で、「先生の御病気のことを耳にいたしました瞬間は、ただ驚愕のみでございまし た…」。田辺はこの一週間後、1月10日に群馬大学付属病院に入院するが、弥生子は最大限の手配をつくし、最高度の医療でもって大切な「先生」を守るべ く、奔走する。幾度も田辺を病院に見舞う。

田辺 元が没したのは、1962年(昭和37年)4月29日、午後7時46分、享年77歳。


田辺が、その死にいたるまで構想をつづけた『死の哲学』は、完成するには至らなかった。死ぬことを覚え(「メメント モリ


田辺の告別式では唐木順三がこれを朗読して追悼した)、死ぬことが何であるかを透察し、いかに死ぬか覚悟を決めていく-キェルケゴールの『反復』から田辺は学ぶ、「キルケゴールのいわゆる反復の概念を以て、無の現在を貫通する永遠に根拠を求める外ない」(岩波文庫・田辺元『死の哲学』379)、と。死ぬことは、生きることへと、復活して新生を生きることへと、永遠の生へと生きること、であると…。

しかし言葉は、最後まで届かなかった。師が語りつくせなかった言葉をさぐり、残された教え子たち(たとえば武藤一雄、久山康…)は苦闘する―死滅して後に、あらためて受け取り直す「第二の直接性」、本来の反復の弁証法について語る課題を負うて。〔かの《キェルケゴール・ルネサンス》の栄光の担い手、神学者カール・バルト自身においてもまた。〕


(むすびに)

日本人は キェルケゴールを読むとき、その思想と正面から向き合い、葛藤し、咀嚼しようと苦闘して、その生と死をかける。日本の精神史の苛烈さにうたれる。キリスト 教一神教あるいは古代ギリシアに由来する西洋精神風土(さらには北欧精神風土)が染みこむ言語で書かれた思想を、それとは異質の精神風土が滲む日本語へと 咀嚼し、思惟を重ね、さらには自らのいのちの糧とまでなす、日夜の戦いがあって、いまキェルケゴールにしても、私たちの前に立っている。


2013年キェルケゴール生誕200年を迎え、私たち先人たちの生と死が縫いこまれた真摯な足跡に学びたい。



(2013年11月16日・キリスト教文化学会大会講演原稿)  




【参考文献】

山田宗睦『昭和の精神史:京都学派の哲学』 人文書院 1975

竹田篤司『物語「京都学派」』中央公論新社(中公叢書) 2001

田辺元・野上弥生子 『往復書簡』 岩波書店 2002

岩橋邦枝『評伝 野上弥生子―迷路を抜けて森へ―』 新潮社 2011

田辺元『懺悔道としての哲学』田辺元哲学選Ⅱ(藤田正勝編)岩波文庫2010年(「解説」)

田辺元『死の哲学』田辺元哲学選Ⅳ(藤田正勝編)岩波文庫 2010年(「解説」)

武藤一雄「キェルケゴールへの問い」『理想』(夏季特大号)No.55519798月)

久山康『人間を見る経験』 創文社 1984

H.ツァールント『20世紀のプロテスタント神学』(上)、井上良雄監修・新教セミター訳 新教出版社 1975



付〕姫路市立生涯大学校・授業資料

キェルケゴール『反復』を日本人はどのように読んだのか

哲学者・田 辺 元の場合

1.講演

京都帝国大学文学部哲学科(京都学派)の栄光を担った一人、教授・ 田辺元は昭和19年(1944年) 10月21日、京都哲学会の公開講演会に講師として立った。ふだんは和服が多い田辺は、このとき背広を着てあらわれた。「私の講演の題は懺悔道と申しま す…」と話し、演題の語句「懺悔」についてその説明から始める。「懺悔」は宗教用語としてはともかく、哲学用語としては奇異でなじめないが、「私にとって 懺悔の道は哲学の道であり、哲学の歩む道は懺悔の道に外なりません」(11頁)。このように哲学が懺悔道であると言うのであれば、語る私自身が先んじて懺悔を行ずべきであり、「従って私の語る事は私の懺悔に外ならない」(14頁)と、自身を懺悔する。

日本の戦争は、破局を迎え、すでに学徒動員令が発せられ、田辺の学生たちも取られていく。「時局の進行に伴って私自身懺悔に立たざるを得ない立場に動かされて行きました」(15頁)。 亡国の悲運を憂い、「これではならぬ、もっと何かしたい」と思いながら如何にもならず、「ああ」と嘆声を発し居る内に断崖から滑り落ちてしまうのではない か、だからと言え、戦争中敵前において自国の不合理を公にするのは、通敵行為に外ならず、「言うべき事は言うのであると思いながらそれを敢えて言い得ぬ無 力、実践的に勇気の無い事を痛感せざる得ない。…単に実践的に無力であると言うのみならず、〔如何にすれば良いのか、真に正しい方策は何かと言う事が判ら ないのであり〕知識においても深く無力を感ずるのである」(16頁)

時代の奔流に呑まれ、哲学者として何も語れず、教師とし て何もしてやれぬ無力、非力を痛悔する極限に立って、それでもなお哲学者として私が在ること、ここになおも私が哲学者であることは、そのように生かされて いる大きな手を覚える―「私を超えたもの、私の他者が私の中でかかる働きを行じて居る事を感ぜざるを得ない…行詰ったという事を行詰りに終わらせぬ不思議 がある。…全く無力の私を…一人前ならぬ私をあたかも一人前の如くに働かしめるものが現実の根底にある存在の原理である」(19-20頁)。「私はかかる意味における懺悔の道に哲学の道がある事を気付かしめられた。無力を徹底的に知らしめられたものをなお有力なものの如くに取扱う存在の原理…基督教的には愛、仏法的には大悲とか絶対の慈悲と言うものであり、私はかかるものに出会わしめられたと感ずる」(20頁)

このときの講演は、 同年12月19日の大学最終講義へと展開され、戦後まもない1945年10月には印刷原稿が整えられ、翌年4月に岩波書店から刊行された。田辺元『懺悔道としての哲学』である。


講演会には、当然ながら、学生たちが出ている。その運命 が迫っていて、もはや時間がない。敬愛する師の教えに接する機会が、次はないかもしれない。哲学科の一人の学生は、講演内容を書き込んだノートにメモした ―「なんということか。思想の、国家の危機。しかし、   もう時はない。師は思想をすすめよ、われは身を挺して国家のために死のう。つづいて11月わた しは召集をうけた。わたしはきっぱりと哲学をも師友家族をもたちきる決心をした」(山田宗睦『西田幾多郎の哲学』山田宗睦著作集 1978年 三一書房、326頁)


2.「懺悔道としての哲学」

このようにして成った「懺悔道としての哲学」は、親鸞の教え、とりわけ『教行信証』に共感する―「親鸞は私の懺悔に還相して私を教化し、以て懺悔道を指導推進する…」(345頁)、「親鸞は私の哲学において学ぶべき師であり指導者である」(389頁)

親鸞が教える仏教思想と共に、田辺はここでキリスト教思想を積極的に受け入れる。 そこでのキリスト教理解に際し、キェルケゴールが田辺にとって大きな役割を果たす。だから「キェルケゴールの実存哲学は懺悔道を展開したものであるといっても必ずしも失当ではない」(89頁)と語り、「私の如き凡愚のための哲学として遂に懺悔道に達したのであるが、その絶対批判的行信の道たる点においては、キェルケゴールに通じる所多く…」(346頁)。それゆえ、ヘーゲルに対する「キェルケゴールの非難」を評価し、くりかえしこれを擁護し、自身の懺悔道に近い「最も近い所」(125頁)におき、「キェルケゴールの信仰の立場と相通じるもの」(125頁)を確認し、キェルケゴールの「示した如く」(303頁)「言った如く」(415頁)「指摘した如く」 (418頁)と繰り返し、のちの『実存と愛と実践』(1947年,筑摩書房)では、その哲学思想が「不朽の意義」をもつ所以を説くほどに好感を寄せる。

田辺が、親鸞と並んでキェルケゴールにも親近しこれを評価したことは、日本におけるキェルケゴール受容史を回顧するとき、それこそ「不朽の意義」を負うと言える。




3.北軽井沢

事は、田辺にはそのままで終わらない。

「懺悔」の「道」は、どこへと達するのか。自己を直視し懺悔して自己否定に徹し、ひとたび自己が死滅するとき、「絶対の自己否定…絶対の死がかえって死につつ生き、生かされつつ生きる転換」(91頁)、「懺悔の核心は転換にある。…単なる絶望を意味せずして、同時に復活への転換の希望を意味する」(49頁)、「死から生へ復活せしめる救済の力」(63頁)に与る。これをキェルケゴールの反復・思想とからませて説き、「有の同一性的反復でなくして、弁証法的否定の無の現成として有を媒介する死復活的永遠の意味…」、と(172頁)

このような懺悔における転換復活・新生・永遠とは何か。未だなお思惟が届かない、なお言葉が欠ける。

昭和20年3月、京都帝国大学を定年退職後、病弱の妻・ ちよを伴い、7月に群馬県・北軽井沢の山荘に隠棲する。都会の喧騒を離れた山あいの地で、生かされて生きる哲学徒として混乱する戦後社会へ語りかける。次 々と書物が生まれ論文も発表される。そのころには新制大学が各地で設立され、招聘される、が、田辺は下山しない。「…此地の厳しい生活に身を曝しますのは、戦時中から小生が思想者として果たすべき責務を尽くさなかった罪に対する自責…罪責の重荷を負ふ者と自らを痛感して居ります。堪へられる限りの犠牲を払ふのが、せめての罪滅ぼしと感ぜざるを得ませぬ」(昭和22年9月2日付 下村寅太郎宛ての手紙)。ここで愛妻を失い、悲痛が深い。独り残された山荘の冬は厳しく、部屋の中のインクも凍る。別荘地の人々は、冬がくる前に下山する。しかし田辺は留まる。田辺自身の懺悔の道はなお終わらない。


晩年の田辺は、「死の哲学」を構想する。いかに生きて「いかに死するか」 、 そしてどのように復活再生し、永遠へと化するのか―「弁証法的否定の無の現成として有を媒介する復活的永遠の意味…」を思索する。 以前の「悔道としての哲学」においてはなお尽くせなかった思惟を巡らせ思考を重ねる。

田辺は、キェルケゴール『反復』を繰り返し読み込んでいる

キェルケゴールの『反復』御読みに因み。小著をも御参照下さいさいました趣、恐縮に存じます。・・・小生は、 現在「死の哲学」といふものを構想して居ります。…まだ透徹せぬ所があるやうに感じられ、書始められずに居ります。…最近キェルケゴールに集中致しまし た。 もう書始められ相でございます。若し奥様が御いでになって御話致すことができます〔な〕らば、執筆のきつかけも与へられますのかも知れませぬ。とに かく「死の哲学」はたとひ遺稿になっても、書上げなければ死ねないつもりでございますから、思残す所がないまで徹底的に煉るつもりで居ります。「死の哲 学」は小生一 人の哲学ではなく、 「死の世紀」たる現代の哲学として万人の哲学でなければならぬ筈です。 …昼間の思索の興奮が夜に続いて、夜半から暁方にかけ一番寒 い時に眠が断え、床上に輾転致す日が少なくありませぬ。  しかしさういふ時にも、「死の哲学」は救援の手を差延べて呉れます。…(1956年2月12日付 田辺から野上弥生子宛の手紙)


もともと田辺には睡眠薬が欠かせない。それでも、「夜半から暁方にかけ一番寒い時に眠が断え、床上に輾転致す日が少なくありませぬ」。生かされて今を生きる思索者として、哲学する…田辺の懺悔を行ずる道は、その死にいたるまで―時間が変容して永遠と化す日まで続く。


田辺が問うキェルケゴール・反復が、復活・再生・新生そして永遠の今を生きる宗教信仰であることを、田辺は知っている、それだけに宗教を哲学する限界に接し、葛藤し、懊悩する…


4.結びに―

学問研究に望まれる真摯な姿勢を、 田辺はここ最後まで すさまじい生き様で見せつける。かってソクラテスの〈死のゼミナール〉と等しく、弟子たちの心を打つ。このような田辺の人とその哲学研究にキェルケゴール が出会い、これと田辺が真摯にむきあい好感を寄せたことは、幸いなことであった。

田辺の許で学んだ武藤一雄の『キェルケゴール』(創文社・1967年)は、 珠玉の光彩を放つ逸品である。また仏教界の名門の家に生まれた大谷 長は、 キェルケゴールのデンマーク語をどのように日本語へと転化するのか、キェルケゴール・テキストがまとう西洋精神文化・北欧文化の含蓄を、それとは 異質の日本精神文化で彩られる日本語へと転化し日本精神風土に根付かせるか、苦闘し、あえて新たな日本語を造成してまで、終生キェルケゴールと結びあっ た。その重厚な著書 『キェルケゴールにおける真理と現実性』(創文社・1963年)が、第一回 田辺元賞を授与されたのは、師・弟ともども慶事であったで  あろう。



*( )内の数字は、田辺元『懺悔道としての哲学』(岩波文庫・2010年)の頁数。


〔参考文献〕

田辺 元『懺悔道としての哲学』(岩波文庫・2010年)解説(藤田正勝)

田辺 元『死の哲学』(岩波文庫・2010年)

竹田 篤司『物語「京都学派」』(中公叢書・2001年)

田辺 元・野上 弥生子『往復書簡』岩波書店 2002年

山田 宗睦『西田 幾多郎の哲学』(山田 宗睦 著作集)三一書房1978年

日本キェルケゴール研究センター